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 Weekly Magnets vol.008

私たちマグネッツが扱っている古着を皆様にもっと興味を持っていただき、古着のすばらしさを
お伝えできればと思い、その歴史やディティールのことについて紹介していきたいと思います。

Lee

アメリカを支える労働の汗を愛したリーの物語

1849年12月9日、ヘンリー・デイヴィッド・リーがアメリカ東北部のバーモントで産声をあげた。
カリフォルニア州サクラメント川で砂金が発掘された、その翌年のことだ。

アメリカ中が「人類は東から西へ向かう」とばかりに西部を目指したいわゆるゴールドラッシュの頃に
幼い日を過ごしたリーは、誰もがそうであったように、アメリカ大陸の西の端に向かえば
きっと桃源郷があると信じ、旅立ちの機をうかがっていた。

13歳になったとき、生まれた街をとびだしオハイオ州ギャリソンに辿り着いた。
そこで見つけた職はホテルの事務員。3年間働き、節約して蓄えた結果は1200ドルだった。

まだ10代ではあったが「投資」ということを知っていたリーは、貯金を不動産に投資して元手を作り、
やがてランプ用の灯油卸会社「セントラル・オイル社」を買い取った。

生来、ビジネスセンスに人一倍恵まれていたリーだったが、健康には恵まれていなかった。

結核に悩まされ、スタンダード・オイル社の創設者である
ジョン・ロックフェラーにセントラル・オイル社の半分を売却した。
1886年のことだ。さらに2年後、悪化する健康状態に悩んだ末、
会社の全てをロックフェラーに売って、再び西へと旅立った。

意思に勧められた乾燥した気候を求めた彼が落ち着いた先は、カンサス州サリナだった。
その地で彼は、特選食料品を扱う「
H.D.リー・マーカンタイル社」を設立する。
1889年、40歳を迎えていた。

ワイルドウエストの時代が終わりを告げようとしていた中西部で
唯一の食料品販売会社としてリーの商売は順調だった。

食品を品質等級に分け、それぞれに独自のレーベルをつけるという
当時には画期的だった販売方法も成功の一因だったのは言うまでもない。

リーは何をどのようにして売ればいいかを知っていた。

やがて、文房具や作業着なども商品に加わるようになり、系列の会社を3社設立した。
1902年に社屋が火事に見舞われるという災難もあったが、それにもめげず会社は成長を続けた。

そうして
1911年、リーに再び転機が訪れる。
その頃東部から仕入れていたオーバーオールやダンガリーなどのワークウェアの入荷が遅れることが多かった。
「客からの苦情をなだめながら入荷を待つより独自に生産したほうがい」というのが彼の決断だった。

ついに自身の工場を設立し、ワークウェアの生産に乗り出した。
もしこの決断がなければ、リーの会社はアメリカ中西部という枠を出ることはなかったであろう。
最初の製品である
8オンスデニムの「ビブ・オーバーオール」は、機能的なポケットと
動きやすさが農夫や工員、鉄道員の間ですぐに評判になった。

成功の女神はいつもリーの味方だった。
1914年、運転手のアイデアで車の整備やタイヤを交換するときに服が汚れないようにと
ワンピース式のワークウェアを開発した。「リー・ユニオン・オール」の誕生である。

この「リー・ユニオン・オール」の誕生こそ、リーを中西部の食品会社からアメリカ屈指の
ワークウェア・ブランドへと発展していくきっかけとなる。


1915年、「ユニオン・オール」専門の製造工場が設立され、翌年にはさらに2つの工場が設けられた。
1917年には軍の目に留まり、第一次世界大戦中には歩兵用ファティーグとして採用された。

その後の衣料メーカーとしてのリーの発展はめざましい。新たな工場や倉庫がミネアポリスや
サンフランシスコ、ロサンゼルスに次々とでき、製品は全米に行き渡っていった...

1920年代になると、アメリカの食料庫である中西部の農場では、
全国的な人口の増加に比例し、牧場の数も日増しに増えていった。

そしてリーはカウボーイたちのために13オンスのデニムを使った「
101カウボーイ・パンツ」を1924年に発売する。
後にリーの看板製品となる「リー・ライダース」の原型であり、20年代、30年代に
「リー・カウボーイ」として親しまれていくパンツである。

カウボーイの財産であるサドルが傷つくことを考慮し、バック・ポケットには
リベットを使わず、スレッド・リベットいわゆる「
カン止め」を採用する。
同年、ロガー・パンツ、セイラーズ・ダンガリーも販売。

リーは様々な職種にあわせたワークウェアを生産し、その目的がわかりやすいようにそれぞれの
職業の名前をつけて売り出す。ネーミングが重要なセールスポイントであることをリーは心得ていた。

新製品開発の情熱は常に発展への原動力だ。

1925年
には、11.5オンスだが13オンスの耐久性を持つ「ジェルト・デニム」を発表。
また、「ホックレス・ファスナー」、つまりジッパーをワークウェアにいち早く採用した。

1926年、ジーンズで初めてのジッパーフライモデルを、翌年にはジッパーを使った「ビブ・オーバーオール」を発売。
このとき、ジッパー付オーバーオールの製品名を募集するという宣伝上手のリーらしいユニークなキャンペーンをおこなっている。

その結果、決定された名前が「
Wizit(ウィジット)」である。

同じ年、変色しない綾織りの生地、ヘリンボーンの開発にも成功している。
素材から製品まで、リーの開発意欲は他の追随を許さなかった。

しかし、1928年3月15日、Lee社は創業以来最大の不幸な出来事に見舞われた。

創業者ヘンリー・デイヴィッド・リーが心臓発作によりその生涯に幕を閉じたのだ。

19世紀末期〜20世紀にかけアメリカが大いに発展をとげていく時代、恵まれた商才を存分に発揮した
一人の実業家は、アメリカの屋台骨を支える男たちのため、彼らが最も必要とする服を作り、
そして販売し、広める情熱を最後の瞬間まで失うことはなかった...


創設者ヘンリー・デヴィッド・リーが亡くなってからのLee社の動きは以下である。

1929  ジッパーのついた初めてのデニムジャケット、「91B」を発表。
1931  よりタイトなウエスタンスタイルのジャケット「101J」を発表。
 このジャケットのファーストモデルには「ハウス・マーク・タグ」がつけられた。
1933  「101J」のウィンターバージョンである裏地にブランケットウールが施された
 ジャケット「
StormRider 101LJ」を発表。
1936  毛のついた状態の牛革にLeeの焼印を押したラベル「ヘアー・オン・ハイドラベル」を採用。
 インサイドネームが「
赤タグ」になる。
1943  社名を「H.D.Inc.」に変更する。
1944  カウボーイパンツに「Riders」のネームを採用。シンチバックを廃止する。
 ヒップポケットにホースマウスステッチ、別名「
レイジーS」を採用する。
1945  雑誌「LIFE」に「東部のロマンスを伝えよう」という広告を掲載する。
1946  サンフランシスコの「エローサー・ハイネマン」社を買収する。同社は「フリスコ・ジーンズ・キャントバステム」、
 「ボス・オブ・ザ・ロード」などを持つウエストコーストでは有名なワークウェアメーカー。
 「
L型ポケット」「パイプドステム」の「フリスコ・ジーンズ」を販売する。
 ロガー・ジーンズ中期モデルを発表。
1952  最も優れた綾織り布である「チェトパツイル」を開発。
1954  レジャーウェア「リージャーズ」を発表。
1959  「ウエスターナー」誕生。
1960  「101J」のタグがおりタグになる。
1961  「ウエスターナー」を筆頭に「センター・クリース」「テーパード・レッグス」を導入する。カジュアルかつ都会的な
 テイストがアイビーリーグの学生たちの間でブームとなる。
1963  「Lee Europe」設立。
 ランダムピケ仕様のカラージーンズ「
ウエスタンコーズ」誕生。
1965  ライトオンツイルのワークパンツ「クラフツマン・ダンガリー」を発表。
 フラップポケット仕様のパンツが登場。この頃からタグが黒タグになる。
1970  ライダース「101」の品番が「200」に、「101J」が「220」に変更される。
1972  ライダース・ブーツカット「200」誕生。


   
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